プロレス、格闘技、IT、デジタル、iPod、Macなどの情報をお伝えするウェブマガジン[angle JAPAN]

›2009年03月07日

解雇されながらも功労者として表彰されたことに前田が苦笑。長州ともガッチリ握手!

Posted by TEAM-angle at 00:00 / Category: 【プ】新日本プロレス / 0 TrackBack

 6日、後楽園ホールで行われた新日本プロレス『旗揚げ記念日〜STRONG STYLE 37th ANNIVERSARY〜』。ちょうど37年前の昭和47年の3月6日、大田区体育館で旗揚げした新日本プロレスだが、この日はメモリアルマッチのほか、懐かしい顔も多数来場。全試合の詳細&試合後のコメントはバトル三昧をご覧下さい。
 第1試合開始前に、新日本のセルリアンブルーのマットの上にレッドカーペットが敷き詰められた。そして新日本37年の歴史の中から、まず4名選出された功労者を“NJPWグレーテストレスラーズ”として表彰する授賞式が行われた。まず菅林社長から魁勝司(北沢幹之)氏が呼び込まれてトロフィーが手渡される。続いてヤングライオン時代のコーチだった、故ブラック・キャットさんの代理人である奥さんと息子さんを金本浩二が呼び込み、笑顔で息子さんを抱きしめた。
 そしてライガーで自身の東京ドームでのデビュー戦の相手を務めた小林邦昭さんを呼び込んでトロフィーを手渡す。最後に山本小鉄相談役が登場すると、「これから私が呼ぶバカ息子は、デビュー戦を私がやりました」と何とも小鉄さんにしか言えないような言葉を交えながら、リングアナウンサーばりに愛弟子の前田日明をコール。
 すると『キャプチュード』が鳴り響く中、前田コールに乗って前田が登場! 新日本のリングを跨いだ前田は小鉄さんからトロフィーを受け取ると、「当時は新日本の目指していたキング・オブ・スポーツという、誰に見せてもおかしくないプロレスをよくやっていました」と語りながら、ヤンチャな仲間たちと頑張っていて、そのヤンチャな連中を束ねていたのが“鬼軍曹”の小鉄さんだったと懐かしそうに語った。そして最後に「新日本の日々は貴重な経験でした。先輩方には本当に心よりお礼申し上げます。ありがとうございました」と締めくくった。

 インタビュースペースで北沢氏、キャットさん親子と並んで、大勢のマスコミ陣に囲まれた前田は、「自分らがいた頃は金曜の夜8時、裏番組が『太陽にほえろ』『8時だよ全員集合』(注:全員集合は土曜の夜8時)、その中で当時新日本が一番視聴率があったんですよね。やっぱりみんなプライドを持って、どこよりも自分たちが一番なんだって思いながら、そういう努力っていうか練習をはじめ、普段の生活でも、山本さんには本当に『飯を食え! プロなんだから!』って言われましたね。いまじゃケガした、ケガさせられたって結構問題になるんだけど、当時はケガさせられたほうが悪いってね。本当にあの頃の新日本プロレスは、後々UWF系といわれるものだったり、K-1だったりしましたけど、当時の新日本プロレスはビッグバンの中心だったね」と語るように、やはり前田がいた頃の新日本はのちのU系やK-1、総合格闘技の礎になっているという考えのようだ。

 さらに前田は現代のプロレスについては「見ていないんですよね。見てないから分からないですよ」とキッパリ。すると、そこに第1試合に出場するためS・S・マシンが控室から出てきて前田とバッタリ対面! 実は前田とマシンは同期ということもあり、「久しぶり」と声を交わしてガッチリ握手。さらにマシンが前田の胸板に冗談で軽く逆水平チョップを打ち込んでいると、マシンとタッグを組む長州力も出てきて、前田に「こんちわ!」と声をかけて笑顔で握手。前田が「長州さん、まだやっているんですか?」と声をかけると、その言葉を背中で聞いた長州は「よっしゃぁ!」と言いながら入場口にスタンバイ。
 そんな長州を見送った前田は「みんな元気だなぁ」と笑顔で呟くと、「でもあの頃の選手はいまでもまだ強いものを持っていますよ。自分、すごい驚いたことがあって、北沢さんがリングスでずっとレフェリーやってもらっていたんですけど、ある時のルールミーティングのときに(ヴォルク・)ハンが何かちょっかい出してきて、(北沢さんを)リングに上げてスパーリングを始めたんですよね。自分は北沢さんが新日本プロレスですごいスパーリングをやっていたっていう話は聞いていたんですけど、見たことはなかったんですよ。で、やったらですね、ハンが全然北沢さんのことを極められないんですよ! 段々ハンが真剣になってきても極められなくて、へぇ〜凄いなぁって思ってね。やっぱり当時の人ってみんな誰に見せなくても、誰に言うでもなく、ちゃんと(本当の強さを)持ってましたね。北沢さんなんて本当にヤンチャな連中のデビュー戦から、ずっとやってましたからね。道場からの送り迎えとかを黙々とやっていた北沢さんが、そんな実力を持っていることに本当に驚きましたね。ハンなんか後から『あの人はどこで(その技術を)習ったんだ?』って聞いてましたもんね」と、とっておきの秘話を話すと、横にいた北沢氏は笑顔でその話を聞いていた。ちなみにリングスでレフェリーを務めていた北沢氏だが、前田とは10年ぶりぐらいの再会だったそうだ。

 いまのプロレスを見ていないと言った前田だけに、久しぶりに古巣の会場に足を踏み入れて、“いまの新日本”の感想を聞かれたのだが、「さっきチラッと小林(邦昭)さんと話したんですけど、昔はレスラーって言ったら、デビューするときまでに最低90kg。で、中堅とかだと大体100kg。メインというか、自分の身長だと110〜115kgぐらいで、なおかつ動けなきゃダメだった。当時の選手は前座の練習生で、100kgの選手を3人乗っけて腕立てしてましたね。みんながみんなじゃないけど、乗せる人は5人くらい乗せてましたね。自分も最高で4人くらいで、400kgですね。そういう強さがありましたよ。だから藤波(辰爾)さんと大阪城ホールでやったとき(1986年6月12日、ダブルKO)、ハイ(キック)をポンポン入れましたけど、リングスだったらみんなダウンですよ。そういう打たれ強さというか、頑丈さがありましたよ。そうやって見ると、どんなプロレスにも対応できるような、幅の広さ。でもちゃんと最低限飛べるような準備はしてましたね」と、やはり自分がいた頃の新日本の話になってしまった。

 まさか新日本の会場で前田と長州が笑顔で握手を交わす場面が見られるとは思ってもみなかったが、実は前田が新日本の後楽園大会に出るのは、1987年11月19日の“長州顔面襲撃事件”以来。そのことを記者から言われた前田は「そうだっけ? あぁそうだね。そうですねぇ、アレにしても何か当時いろいろ契約の問題で(UWFが新日本に)吸収されるとか、(全日本では)天龍さんが輪島(大士)さんと凄い試合をしはじめたんですよね。レスリングシューズで顔面をバンバン蹴って、それでUWFが霞んじゃったんですよね。まぁ長州さん(が新日本に)戻ってきたら、そういう試合が出来るんだろうなと思っていたんですけど、ちょっと何て言うんですかね、アレは事故としか言えないですね。お互いに信頼感がなかった」と、当時の複雑な状況や心境を吐露してくれた。
 長州が全日本を離脱したことで誕生した天龍革命。その天龍革命の試合を見てUWF存続に危機感を覚えた前田。そして長州が新日本に復帰したことで、前田は天龍革命のような激しい試合をしようと試みたが、まだ信頼関係が築けていない状況だったこともあり、あの顔面襲撃事件が起きてしまった。その結果、前田は新日本から解雇されたわけだが、時は流れてまだ長州が試合をしている新日本で、前田がグレーテストレスラーズとして表彰された。それだけに前田はトロフィーを見つめながら「そういえば解雇になったんですよね(笑)。まぁまぁいろんなことがありましたけど、終わってみればそれはそれでね。言えるのは当時は全員が真剣だったんですよ! 自分のやっていることに対して真剣でしたよね。誰も自分のやっていることを舐めている人は、1人もいなかったです。真剣にやってましたよ」と、プロレスであってもある意味“真剣”な勝負だったことを強調。

 さらにOBとして今後の新日本に期待することを聞かれた前田は、「いまは日本テレビが長年のプロレス放送を打ち切ったり、いい話がないんですよね。やっぱり何かリング上のレスラーからイマイチ危機感を感じない。原点に帰れっていうんですよね。昔の新日本プロレスの厳しい練習、厳しい生活、ほんで激しい試合っていう新日本黄金期の原点に帰らなきゃいけないですね」と苦言を呈した。なお、前田にとって師であり、最大の敵でもあったアントニオ猪木はもう新日本にいないわけだが、「前田さんにとって新日本プロレスとアントニオ猪木はイコールじゃないですか?」と聞かれると、「イコールじゃないですね。自分たちは合宿所と道場と、コーチの山本さん(が新日本プロレス)」と答えた。
 最後に前田は「でも新日本衰退の原因もたぶん自分たちにもあって、自分たちの世代が、自分たちより下の世代に教えていかなきゃいけなかったのにゴソッと抜けちゃったんで、つながらなかったですからね。それがしょうがなかったっすね」と、闘魂伝承ではなく、新日本道場論みたいな厳しさを下の世代い継承出来なかったことを少し反省した。

【angle JAPANは休刊中。プロレス・格闘技のニュースや試合リポートは下記のサイトで!】
btln-banner_468-60.gif